AUSTRALIND

第2の故郷

私の幸せ

自分の足で歩けること。

自分の好きなものを買えること。

自分を愛してくれる人が傍にいること。


思いっきり笑えて、

思いっきり歌えて、

思いっきり踊れて、

夢中になれるものがあること。


天国のおばあちゃんに感謝出来ること。

思いを共有出来る家族がいること。


天職に出合えたこと。


人を好きになれること。


私の名を呼んでくれる人がいること。


ごはんが、美味しいと思えること。


ゆっくり数えると、ポロッ…ポロッ…と出てくるのよ。



許されるのであれば…
一生、弟と2人で暮らしたい。
両親が、“弟をお願い…”と言うのなら。

両親が、弟が、姉弟の2人で生きていくことを、望んでくれたのなら、こんなにも悩まなかったのに…。

私になら、出来るのよ。
私たちは、年齢が近いから、私が看取ることが可能なの。

“自分の幸せを考えて…”と言われる度に、
“これが私の幸せなのに、決めつけないで…”と悲しくなるの。

浅はかだと知りながらも…そう、思ってしまっていたのよ。

何かを犠牲にしたり、諦めたり、しているつもりはないのだけれど…“知らない”だけ、なのかなぁ。
“知らない”から、自分が間違っていないと、勘違いしているだけなのかも知れないと思うのです。
情報は、TVや雑誌からでも入ってくるけれど、自分の五感を通して知り得るものが必要で、凝り固まった個人の価値観の中で埋もれて過ごしていたら、“知らない”ことを知れないもの。

気持ちが、何度後ろを向いてしまっても、良いの。
カッコつけないで良いのよと、私は私に言ってあげたい。

後悔がないといったら嘘になるけれど、不器用ながらも、その時の自分に出来る最大限で、いつも過ごしてきたから、今は、不思議と清々しい気持ち。

1つ、吹っ切れたら、妙なテンションになっちゃって…
連日徹夜明けのお仕事。
そんな風に過ごしていたら、快晴な休日に、1日中眠ってしまいました。
…吹っ切れていると、言えるのかなぁ?



人に寄り添う時、諦めたものを悪く言うのは、逆効果よ。
これまでの日々を、否定されている気分になるの。
一歩踏み出せた時は、「よく頑張ったね!」と言われたい。
それで、十分気持ちは晴れやかよ。

実は今、弟と私は会っていません。

その現実を受け入れることが、必死に頑張ってきた分、私には難しかったけれど、不思議なことに、半分諦めの様な気持ちと、心を無にして、ただ、過ごしていた数日が過ぎ…

気付くと、少しずつ受け入れながら過ごせる様になってきた時に、これまで色々と我満していたものが、少しずつ身に戻ってくるのを感じました。
そして、改めて、自分が生かされているということに、気付くのです。

ほんの一瞬、弟をなくすどころか、両親も悲しませていたかも知れない…そんなことを回避出来たのは、守られていたから。

『加減』を学ぶこと。
私には、必要だったのかも知れません。
それは、弟の為にも…。

自分らしく生きながら、“その時”が来るのを静かに待ちます。